C    28ページの飲酒の 2と5列目。

  喧と言う字は 「カシマシ」とは読まない、「カマビスシ」である。

  カシマシの字は「姦」である。

  高校の教科書も「かまびすシキ」と仮名を振っており、「かまびすしきなし」と読み下している。

  この本「鑑賞ガイド」は どうして 読まない字を「カシマシ」と仮名を振るのか、不思議である。

又、5列目、読み下し文「菊を東籬の下にとり」となっていますが 「菊をとる東籬の下」では ないでしょうか。

尚、訳として「南山の姿が悠然と立ち現れた」と印刷されていますが、それならば「悠然とした南山を見る」と

読み下すべきです。読み下しと 訳が矛盾している。 悠然としているのは 南山と云う事になる。

しかし、ここは 悠然としているのは 陶淵明ですので「ゆったりとした気持ちで、ふと 目を上げると

南山(廬山) が見える」となります。

 今だから言える 当ページを開設するに至った理由と経緯

 

「飲酒」 其の五、陶淵明

             この漢詩の読み

結廬在人境       いおりを結んでじんきょうにあり

而無車馬喧       しかも 車馬の かまびすしきなし

問君何能爾       君に問う 何ぞ よく しかるや と

心遠地自偏       心遠ければ 地 おのずから へんなり

采菊東籬下       菊をとる とうりのもと

悠然見南山       ゆうぜんとして南山を見る

山気日夕佳       さんき にっせきに よく

飛鳥相与還       ひちょう あいともに かえる

此中有真意       このうちに真意あり

欲弁已忘言       べんぜんと欲すれば すでに げんをわする

 

この漢詩の

 

私は隠居の庵を人の住んでいる所で営んでいる(普通は人里離れた所だが)。

しかし、訪問客の乗り物である車馬の音が騒々しい事はない。

どうしてそんなことができるのか、と貴方に問う(自問自答)

「心を遠い境地(超然とした心情)に馳せていれば、住んでる場所も自然と辺鄙になるのだよ」と。

東側のまがきのもとで菊を摘み

心 ゆったりとして南山をながめる。

山の気配は 日暮れ時こそ すばらしい

鳥たちも群れになって 山のねぐらに帰ってゆく。

こう言う生活、こんな自然の風景の中にこそ 人生の真意が込められている

この素晴らしさを言葉で言い表わそうとしても 言うべき言葉を忘れてしまった。

(実に 何とも言えない満ち足りた心境なのだ)

 


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